沖縄戦は、1941年から始まった太平洋戦争末期の1945年、アメリカ軍を主体とする連合軍と日本軍との間で行われた日本国内最大の地上戦です。多くの住民を巻き込んだ地上戦は、「みにくさの極致きょくち」と言われるほどすさまじいものでした。

中城村では、日本軍が陣地構築じんちこうちくのため駐屯ちゅうとんし、北上原や南上原に陣地壕を構築しました。日本軍の陣地壕があることで、北上原・南上原一帯はアメリカ軍による熾烈しれつな攻撃を受け、日米両軍の激しい戦闘が展開されました。沖縄戦における中城村出身者の戦没者数は5,198名※です。

※字別の統計は『終戦60周年記念誌 平和の風』(中城村遺族会)を引用しています。

※参考:平成27年度「平和の礎」刻銘者数より

中城村内の戦争遺跡を見る
月日沖縄戦中城村のできごと
1944年4月1日第32軍統帥(とうすい)発動。
8月12日沖縄より第一陣学童集団疎開者(がくどうしゅうだんそかいしゃ)129人、鹿児島へ向け出港する。
喜舎場(きしゃば)国民学校が第62師団(しだん)第64旅団(りょだん)本部となる。
8月20日第62師団長(しだんちょう)直轄(ちょっかつ)独立(どくりつ)歩兵第12大隊(隊長賀谷與吉(かやよきち)中佐)が部隊本部を津覇国民学校に置き、中城方面の防衛(ぼうえい)並びに作戦準備にとりかかった。
8月21日第62師団長(しだんちょう)直轄(ちょっかつ)独立(どくりつ)歩兵第11大隊(隊長三浦日出四郎(みうらひでしろう)中佐)が中城村に位置し、和宇慶、伊保浜(いぼはま)海辺を重点に、アメリカ軍を水際(みずぎわ)において撃滅(げきめつ)すべく陣地(じんち)構築(こうちく)した。
8月21日津覇国民学校学童疎開団(がくどうそかいしゅうだん)暁空丸(ぎょうくうまる)にて対馬丸(つしままる)和浦丸(かずうらまる)とともに那覇港を出港する。
8月22日学童疎開船(がくどうそかいせん)対馬丸(つしままる)悪石島(あくせきじま)沖で沈没(ちんぼつ)する。学童・一般人700名の犠牲者(ぎせいしゃ)が出る。 「学徒勤労令(がくときんろうれい)」、「女子挺身勤労令(じょしていしんきんろうれい)公布(こうふ)
8月28日中城国民学校学童疎開団(がくどうそかいだん)泰久丸(たいきゅうまる)にて那覇出発。8月30日、鹿児島に着く。
8月29日喜舎場国民学校の疎開児童(そかいじどう)、熊本へ出発する。
9月末~11月初第32軍沖縄県民の現地徴集(ちょうしゅう)および、一部防衛召集(ぼうえいしゅうしゅう)を行う。
10月3日アメリカ統合参謀本部、アイスバーグ作戦(沖縄攻略作戦計画)を立案。
10月10日アメリカ機動部隊による沖縄大空襲(だいくうしゅう)がおきる。(10・10空襲)
10月18日日本全国、満18歳以上の男子を兵役(へいえき)に編入する。
10月19日神風特別攻撃隊(かみかぜとくべつこうげきたい)(特攻隊(とっこうたい))が編成される。
12月沖縄各地に緊急(きんきゅう)特設(とくせつ)挺身隊(ていしんたい)が結成される。
12月1日沖縄、非常食糧(しょくりょう)整備週間はじまる。
12月8日独立混成(どくりつこんせい)第15連隊、喜舎場国民学校に連隊本部を置く。
1945年1月3日~4日アメリカ軍艦載機(かんさいき)沖縄・先島諸島(さきしましょとう)爆撃(ばくげき)される。
1月12日島田叡(しまだあきら)大阪府内政部長、沖縄県知事に任命される(沖縄着1月31日)。
1月~3月第32軍現地第二次防衛(ぼうえい)召集(しょうしゅう)、満17歳から45歳までの健全な県民男子ほとんどを招集(しょうしゅう)する。
2月7日第32軍参謀長(さんぼうちょう)の沖縄県庁来訪、6か月の住民食糧(しょくりょう)緊急確保(きんきゅうかくほ)を島田知事に依頼する。 沖縄の平時地方行政から戦時行政への切り替え。
2月10日沖縄本島内、北部疎開(そかい)決定する。
2月15日第32軍「戦闘指針(せんとうししん)」が沖縄県下の軍民(ぐんみん)示達(じたつ)される。 標語(ひょうご)一機一艦船(いっきいちかんせん) 一艇一船(いっていいっせん) 一人十殺一戦車(ひとりじっさついちせんしゃ)」。 沖縄全県下に市町村単位の国土防衛義勇隊(こくどぼうえいぎゆうたい)編成(へんせい)が始まる。
2月19日沖縄県下、中学校単位の防衛隊(ぼうえいたい)編成(へんせい)が始まる。
3月6日「国民勤労動員令」公布。沖縄県、満15歳~45歳の男女、全員現地召集。
3月8日賀谷支隊(かやしたい)越来(ごえく)国民学校から喜舎場国民学校へ移る。
3月14日文部省、決戦教育措置(けっせんきょういくそち)を発表する。4月1日より、1年間全国の学校授業停止と決定する。
3月20日大本営、「当面の作戦計画大綱(たいこう)発令(はつれい)、沖縄作戦に重点をおくことを決定する。
3月23日アメリカ軍、沖縄本島爆撃(ばくげき)開始(上陸前準備作戦)。アメリカ軍による空襲(くうしゅう)により、中城村の集落が焼夷弾(しょういだん)による攻撃(こうげき)を受ける。 中城湾沿いの久場から津覇のあたりまでの集落が空襲による攻撃を受ける。
3月25日アメリカ軍沖縄本島へ艦砲射撃(かんぽうしゃげき)を開始する。アメリカ機動隊(きどうたい)よる艦砲射撃(かんぽうしゃげき)が開始され、同時に艦載機(かんさいき)による空襲(くうしゅう)により、多大な損害(そんがい)を受ける。
3月26日アメリカ軍慶良間諸島(けらましょとう)上陸。島内で住民の「強制集団死」が発生する。
3月27日泊、伊舎堂、添石、屋宜あたりの集落が全焼したと考えられる(27、28日頃)。
3月30日津覇国民学校がアメリカ軍の猛爆(もうばく)によりコンクリート校舎といくつかの教室を残して破壊(はかい) される。 奥間、津覇の集落にも火の手が上がった。
4月中城国民学校の校舎が破壊(はかい)される(4月4日まで残存が確認されているがそれ以降不明)。
中城城跡本丸にあった役場が破壊(はかい)される(詳細不明)。
4月1日アメリカ軍、沖縄本島中部の西海岸に上陸し、即日、北・中飛行場(読谷飛行場)を奪取(だっしゅ)する。賀谷支隊(かやしたい)の一部が、上陸アメリカ軍と海岸付近で交戦する。 午後3時頃、賀谷中隊の一部が、桃原、山内の線に後退(こうたい)する。夜、賀谷支隊長は、第4中隊に屋宜原付近の確保、第3中隊に島袋方面高地の確保を命令する。
4月2日アメリカ軍、東海岸の泡瀬一帯(あわせいったい)に進出する。第12第隊(賀谷支隊)本部、兵力を集結し、161高地中城村新垣西南付近に転進を開始する。 石部隊が守備する中城城跡までアメリカ軍が侵入する。
読谷山のチビチリガマで「強制集団死」が起きる。アメリカ軍、島袋・喜舎場の北側に進攻(しんこう)する。
久場の集落の前方が大方焼夷弾(しょういだん)で焼かれる。1軒だけが残ったといわれる
アメリカ軍の中城方面侵攻(しんこう)(ともな)い、中城郵便局(伊舎堂)の業務が停止し、壊滅(かいめつ)する。
賀谷支隊の一部が北上原の161高地付近に転進を開始する。
4月3日アメリカ軍、普天間東西の線まで進出する。泡瀬-熱田を南下したアメリカ軍が、久場方面にせまり、賀谷支隊が邀撃(げきげい)した。 賀谷支隊本部が161高地陣地に位置し、主力を161高地に転進する。 賀谷支隊の一部は野嵩(のだけ)、中城城跡の線でアメリカ軍の南下を阻止する。 アメリカ軍、島袋方面に突入(とつにゅう)する。また、久場方面に戦車を先頭に進出、久場崎海岸からアメリカ軍が出現した。
瑞慶覧(ずけらん)住民、御願山(ウガンヤマ)のガマから投降(とうこう)する。
4月4日アメリカ軍、北谷・島袋・大山・宜野湾の線まで進出する。沖縄本島を南北に分断する。 アメリカ軍、国頭地区に進撃(しんげき)を開始する。アメリカ軍、安谷屋-荻堂-久場-と喜友名-普天間の線まで進出する。
新垣の第3中隊はアメリカ軍の攻撃(こうげき)をあび、死傷者が続出する。夜、賀谷支隊長は大隊を161.8高地に撤収(てっしゅう)するよう各隊に撤退(てったい)命令を発す。
4月5日北谷村砂辺(すなべ)捕虜収容所(ほりょしゅうようじょ)の約1500人の住民、トラックで島袋収容所に移送される。当間、安里集落が焼失したと考えられる(4月5日以降)。
この日までにアメリカ軍、宜野湾の第32軍主力陣地に攻撃(こうげき)を開始する。 アメリカ軍、読谷山村字比嘉に米国海軍政府樹立、島民の保護管理が始まる。独立歩兵第14大隊の第1中隊の一部、161高地でアメリカ軍の攻撃(こうげき)撃退(てったい)したが6日、アメリカ軍の攻撃(こうげき)をうける。
アメリカ軍、奥間集落を占領(せんりょう)する。中城国民学校の敷地(しきち)が、アメリカ軍の砲陣地(ほうじんち)となる。
4月6日日本軍、第一次航空総攻撃(菊水(きくすい)一号作戦)開始する。約400機が米艦隊(かんたい)攻撃(こうげき)する。アメリカ軍が和宇慶陣地に進出したので、独立歩兵第十一大隊第五中隊(恩田隊)が交戦した。その後、兵力を増加したアメリカ軍と、和宇慶、内間、津覇、上原付近で連日激戦が展開した。
新垣西方地区にアメリカ軍戦車出現し攻撃(こうげき)。 161高地の攻防戦が展開されたが、日本軍全滅状態(ぜんめつじょうたい)(おちい)り、同夜142高地へ後退する。 アメリカ軍は和宇慶陣地に進出、独立歩兵第11大隊の第5中隊(恩田隊)は、これに交戦する。 アメリカ軍戦車約50、歩兵約500和宇慶の陣地前に進出、第11大隊、第5中隊(恩田隊)戦闘開始。その後、アメリカ軍兵力を増加し、和宇慶、津覇、上原付近において連日激戦(げきせん)を展開する。
4月7日海上特攻(とっこう)戦艦大和撃沈(せんかんやまとげきちん)北上原の161高地が占領される。
アメリカ軍、名護に進攻(しんこう)する。賀谷支隊(かやしたい)、本部幸地に位置し、主力を集結させる。南上原付近で死闘が展開される。アメリカ軍戦車3両を破壊(はかい)する。 南上原、和宇慶の線でアメリカ軍の南下を阻止する。
4月8日アメリカ軍、前線西海岸内泊・牧港・東海岸津覇を結ぶ線まで侵攻(しんこう)する。南上原-和宇慶の守備陣地はアメリカ軍の攻撃(こうげき)を受け、激戦(げきせん)が展開されるが、南上原陣地の一角がアメリカ軍に占領(せんりょう)される。
アメリカ軍、津覇集落を占領(せんりょう)する。津覇の住民はアメリカ軍によって避難壕(ひなんごう)から保護され、泡瀬収容所(あわせしゅうようじょ)に軍用トラックで収容(しゅうよう)される。(『津覇誌』)
4月9日嘉数地区にて攻防戦(こうぼうせん)が開始され、4月14日まで続く。
4月10日恩田隊は和宇慶集落を保持し、アメリカ軍の南下を阻止。その日以降、賀谷支隊(かやしたい)は西原142高地、南上原155高地付近の陣地を強化し持久戦(じきゅうせん)に移行する。 各中隊において3、4名組の挺身斬込隊(ていしんきりこみたい)を選出し、普天間、大城、津覇方面に潜入(せんにゅう)させ敵状偵察(てきじょうていさつ)、戦車火砲の破壊(はかい)などを命令する。
4月11日アメリカ軍、那覇方面へ進攻(しんこう)する。和宇慶集落北側に進出してきたアメリカ軍の戦車を撃退(げきたい)する。
4月14日中城湾の米艦船(かんせん)戦艦(せんかん)2、巡洋艦(じゅんようかん)7、駆逐艦(くちくかん)及び掃海艇(そうかいてい)16、輸送船(ゆそうせん)5~10、戦車揚陸船(せんしゃようりくせん)20~30。
4月19日アメリカ軍、首里外郭(がいかく)陣地(じんち)(主力第62師団)に対し第一次総攻撃(こうげき)を開始する。 西方:牧港・伊祖、中央:嘉数・西原・棚原各高地、東方:和宇慶・ウシクンダ高地を結ぶ線にて攻防戦(こうぼうせん)展開。早朝、アメリカ軍が和宇慶に猛砲撃(もうほうげき)を加え、戦車、歩兵を(ともな)って前進する。
4月20日アメリカ軍第114連隊第2大隊は、執拗(しつよう)攻撃(こうげき)をくり返し、伊集高地(糸蒲山一帯(いとかまやまいったい))を占領(せんりょう)した。
5月9日首里を核心とする第32軍の防御戦(ぼうぎょせん)始まる(5月23日まで)。
6月19日組織的戦闘(そしきてきせんとう)不可能となり、第32軍軍司令部最後の命令が下達(かたつ)される。
6月22日明け方、牛島満(うしじまみつる)軍司令官、(ちょう)(いさむ)参謀長(さんぼうちょう)摩文仁(まぶに)山頂(さんちょう)自決(じけつ)(23日説あり)する。沖縄での組織的戦闘(そしきてきせんとう)が終了する。 日本政府「国民義勇兵役法(こくみんぎゆうへいえきほう)公布(こうふ)。天皇、最高戦争指導会議に終戦意志を表示する。
7月26日対日ポツダム宣言発表。
8月15日天皇、終戦のラジオ放送。
9月7日嘉手納の第10軍司令部にて降伏調印(こうふくちょういん)。沖縄戦終わる。

参考文献
『沖縄県史8 沖縄戦通史』
『中城村史 第四巻 戦争体験編』
『北中城村史 第四巻 戦争論述編』

用語解説

(参考:沖縄タイムス大百科事典、沖縄民俗辞典)

あ行

按司あじ

12世紀ごろから現れたとされる琉球各地の政治的な支配者のことです。琉球王府の時代には位階名となります。「中城按司」など、支配する領域りょういきの地名をつけて呼ばれます。

伊寿留いじゅるん

護佐丸の兄と伝えられています。山田按司あじの長男として生まれますが、争いごとを好まなかったため、父の後を継がず中城の地で農業にはげんだといわれています。伊寿留の墓は中城グスクの東側にあり、子孫である伊舎堂安里家が管理しています。

ウガンブトゥチ(御願解き)

旧暦12月24日に行われる、トートーメー(仏壇ぶつだん)やヒヌカン(火の神)などに1年の感謝を報告する行事です。

ウスデーク(臼太鼓)

女性たちが踊る祭祀舞踊さいしぶようのことです。

御嶽ウタキ

沖縄の村落祭祀そんらくさいしにおいて重要な聖地せいちのことを御嶽ウタキといいます。他にウガン、ムイなどとよばれています。

産水うぶみず

出産後の赤子あかごびせたり、産後のきよめのためにひたい産水をなでつける「ウビナディ(お水撫みずなで)」を行うための水です。

ウマチー

沖縄のむぎいねにかかわる4つのお祭りのことです。2月(麦穂祭)・3月(麦大祭)・5月(稲穂祭)・6月(稲大祭)に行われます。現在、麦作が衰退すいたいしているため多くの村落そんらくでは2月と3月のウマチーが廃止はいしされ、5月と6月のウマチーを行う所が多いと言われています。

ウハチー

旧暦6月23日にいね収穫しゅうかくを祝い、その年にとれた作物を神にささげる行事です。

御涼傘ウリャンサン

国王の外出時にかざりとして使われる絹張きぬばりの大傘おおがさ。黄染めの黄御涼傘ウリャンサンと赤みをびたオレンジ色の赤御涼傘ウリャンサンがある。

駅制・里制

琉球王国を統一とういつした尚巴志しょうはし王が迅速じんそくな情報伝達のためにいた制度せいどだと考えられています。

大城賢雄(鬼大城)おおしろけんゆう うにうふぐすく

生没年不詳、第一尚氏王統6代目尚泰久しょうたいきゅう王に仕えた武将です。人々から「鬼大城」と呼ばれていました。阿麻和利あまわり討伐とうばつ後、百度踏揚ももとふみあがりを妻にし、越来ごえくグスクの城主となりました。その後、第二尚氏王統にほろぼされたと伝わっています。

おもろさうし

1531年~1623年、三回にわたって首里王府が奄美・沖縄に伝わる「おもろ(祭祀歌謡さいしかよう)」を集めた沖縄最古の歌謡集かようしゅうです。全22巻で1554首のおもろがおさめられています。おもろは古琉球の民俗みんぞく・思想・社会・歴史などを反映するもので、沖縄の伝統でんとう文化・文学・宗教・思想・社会構造こうぞうなどを考えるうえで大切な資料です。原本は1709年の首里城の火事で焼失しました。1710年に再編集された『尚家本しょうけぼんおもろさうし』は、国の重要文化財に指定されています。

か行

皇民化政策こうみんかせいさく

沖縄戦以前まで、当時の日本政府が沖縄において行った強制的な日本化政策のことです。住民に対してこれまで使用していたウチナーグチ(沖縄語)ではなく、日本語を使うことを強制し、神社の建設や参拝さんぱい、日の丸の掲揚けいよう、君が代の斉唱せいしょうなどといった皇民化教育が行われました。

カママーイ

かまどまわりのことで、旧暦10月1日におこなわれる年中行事です。火災予防の目的で集落内をまわり、各家庭でも火の用心をしました。

亀甲墓かめこうばか

屋根の部分が亀甲状きっこうじょうになっているお墓です。「カーミナクーバカ」と呼ばれています。亀甲墓は母体をかたどったものであるといい、人は死ぬと再びもとのところへ帰るという思想のあらわれといわれています。沖縄でもっとも古い亀甲墓は、中城村久場の護佐丸の墓、那覇市首里石嶺町にある伊江御殿家いえドゥンチけの墓(1687年)といわれています。一般に広く流行したのは、明治中期から大正・昭和にかけてだと考えられています。

龕屋ガンヤー

死者を墓場までかつ輿こしを保管する建物です。

帰農士族きのうしぞく

琉球王国時代の士族層しぞくそうのうち、何らかの理由で首里から各地に移り住み、定住した人々のことをいいます。その人々が形成した集落は「屋取集落ヤードゥイしゅうらく」とよびます。

義本王ぎほんおう

生没年せいぼつねん1206~ ? 舜天王統しゅんてんおうとう3代目の王と伝えられる人物です。在位ざいいは11年(1249~1259年)。琉球王国の正史『中山世譜ちゅうざんせいふ』によると、1249年に義本が即位そくいした頃、国中に飢饉ききん疫病えきびょう流行はやったため人民の半数が死にました。そこで群臣ぐんしんのすすめで英祖えいそという人物に国政をとらせたところわざわいがおさまったので、義本は1259年、英祖に位をゆずり、消息不明となったと記されています。義本王の墓と伝えられるものが北中城村仲順ちゅんじゅん、国頭村辺戸へどなど数カ所にあります。

クシデーガミ(腰当神)

「クサティ」ともいいます。沖縄の家や集落しゅうらく背後はいごにある山やおかがけ・森などのことです。沖縄の言葉で「支えやたよりにされる存在」という意味があります。

護佐丸ごさまる

生没年1390?~1458年。山田グスク城主の三男に生まれ、琉球王国統一とういつ活躍かつやくした武将ぶしょうです。第一尚氏王統しょうしおうとう6代までの王につかえた忠臣ちゅうしんと伝わっています。座喜味グスクや中城グスクを築いた築城家ちくじょうかとして知られています。  

軽便鉄道ケービンてつどう

1914年から1945年の初めまで、沖縄県によって経営けいえいされていた鉄道です。与那原線・嘉手納線・糸満線・海陸連絡船(那覇駅―那覇港)があり、距離は48.03kmありました。沖縄戦で破壊はかいされるまで、陸上の輸送ゆそうに重要な鉄道でした。

権現ごんげん

ほとけ菩薩ぼさつが、人間をはじめとするすべての生物を救うために、かりに人間などの姿になって現れることをいいます。

さ行

サングヮチャー

旧暦3月3日の行事のことです。「サングヮチサンニチ」とも呼ばれています。とくに女性が浜下はまおりをし、やくを落とします。また各家では、ヨモギ餅を中心としたそなえ物を仏壇ぶつだんやヒヌカン(火の神)にそなえて健康祈願けんこうきがんを行います。

先中城按司さちなかぐすくあじ

14世紀中頃に中城グスクをきずいた按司あじです。先中城按司の一族が数世代にわたって、南のかく、西の郭、一の郭、二の郭を築造ちくぞうしたと伝わっています。

識名村しきなむら

かつて中城にあった村のひとつで、地滑じすべりにより壊滅かいめつしたと伝わっています。中城村字屋宜の統合拝所とうごうはいしょには、識名村の人々への供養くようのために建てられたと伝えられるカクリジカと呼ばれる拝所はいしょがあります。

地頭職じとうしょく

領地りょうちをもつさむらいで、近世の役職やくしょくです。地頭とは、地頭地をさずけられた者のことです。1村を領する者を脇地頭わきじとう、1間切まぎりを領する者を総地頭そうじとうとよび、区別されます。按司あじはもともと間切を領する者のため按司地頭あじじとうともいいます。総地頭そうじとうとあわせて両総地頭りょうそうじとうともいいます。

宿次しゅくつぎの道

首里王府しゅりおうふの急ぎの文書を各間切まぎりに伝達することを「宿次しゅくつぎ」といいます。琉球王国を統一した尚巴志が駅制をほどこした時に整備されたと考えられています。

シマクサラシ

疫病えきびょう風邪かぜ悪霊あくりょうが集落や家の中に入らないように行われる行事のことです。神役かみやく御嶽ウタキ線香せんこう花米ハナグミをおそなえしておがみ、さらに動物(牛・馬・山羊やぎぶたなど)を切殺きりころし、ワラなわをなってその血でめ、外から災厄さいやくが入らないよう村の入口に縄を張ったり、屋敷やしき四隅よすみつるします。動物の骨をつるす地域もあります。

スガチミチ(潮垣線)

海岸線に沿って中城から西原へと続く道で、現在の潮垣線(しおがきせん)にあたります。かつてはこの道の近くまで海だったといいます。

添石ノロ

添石、泊、新垣をはじめ、中城グスク内の拝所はいしょ祭祀さいしり行っていたノロです。

た行

タントゥイ(種取祭)

いね種子しゅし苗代なわしろ(田植えの前に、稲の種をまいて苗を育てる田のこと)にまく種子しゅしおろしの行事のことです。

タントゥイモー(種取毛)

翌年の種子取しゅしとりを無事に終えたことをよろこぶ祭りを行う場所のことです。

チナーウタキ

奥間集落の後方にあるチナーヤマ(喜納山)にあった拝所はいしょです。1713年、首里王府によって編集された『琉球国由来記りゅうきゅうこくゆらいき』にもその名が記されていることから、300年以上の歴史をもつ古い拝所であることがわかります。神名かみなは「奥間森比喜うくまもいひきセジノイベ」と記されています。1970年頃、土砂崩どしゃくずれによりチナーウタキ(喜納ノ嶽)は流され地中にもれてしまいましたが、現在は、チナーヤマ(喜納山)にあったとされる按司墓あじばかとキシマコノ嶽(シマクのウガン)の遥拝所ようはいじょとともに、奥間集落後方の以前とは異なる山中に合祀ごうしされています。

照屋村てるやむら

中城グスクの東側下方と、現在、沖縄成田山福泉寺の敷地となっている周辺一帯いったいに、それぞれ添石村と照屋村があったと伝えられています。1713年に首里王府によって編さんされた『琉球国由来記りゅうきゅうこくゆらいき』に「照屋村」の記載きさいがありますが、その後17世紀後半から18世紀に前半にかけて添石村に統合とうごうされたと考えられています。

トゥン(殿)

沖縄本島において拝所はいしょ祭祀場さいしじょうを意味する語。トゥン(殿)は、村落内で神をまつったり、来訪神らいほうしんを迎えたりする場ですが、時には草分けの家:ニーヤ(根屋)の屋敷内におかれていることもあることから、集落の発祥はっしょうの地ともとらえられています。

な行

ナージキ

かつて沖縄にあった習俗しゅうぞくのひとつで、赤子の「命名式」のことです。出産日から7日までの間に行われました。

中城国民学校なかぐすくこくみんがっこう

1941年、「国民学校令」により、中城尋常じんじょう小学校は中城国民学校になりました。現在の中城小学校のことです。

中城間切番所なかぐすくまぎりばんじょ

番所ばんじょとは、琉球王国時代の間切まぎりの行政の拠点きょてんとなった役所のことです。現在の町村役場にあたります。中城間切番所は、中城城跡内にありました。

南山なんざん

沖縄本島南部のことで、三山分立時代(12~13世紀頃)、南山王の支配下しはいかにあった地域です。

ニーガン(根神)

沖縄本島と周辺離島りとうにおいて、村落そんらくの草分けの家やその一門から選出される女性祭祀さいし者のことを「ニーガン(根神)」いいます。村落祭祀において重要な神役かみやくのひとつです。

ニーヤ(根屋)

沖縄の集落の中でムラの発祥はっしょう伝承でんしょうにかかわる最も古いとされる家のことです。

ニッチュ(根人)

沖縄本島と周辺離島において、村落そんらくの草分けの家から選出される男性祭司さいし者のことです。草分けの家の当主が代々、ニッチュ(根人)を継承けいしょうしました。

ニングヮチャー

旧暦2月2日に行われた行事です。いねや豆などの作物の植え付けがひと段落する頃で、一休み(腰休こしやすめ)という意味の沖縄語で「クシユックィー」ともいいます。今でいう慰労会いろうかいのようなものです。

ヌル

またはノロ(祝女)。沖縄の民間信仰しんこうでは、女性のセジ(霊力)が重視され、村落そんらく祭祀さいしを行う神女しんじょとして古くから、ノロ(祝女)と呼ばれる神役かみやくが存在していました。沖縄で按司あじがいた頃から存在していたとされるノロ(祝女)は、やがて琉球王国の政治的組織に組み込まれるようになると、辞令書じれいしょをもって任命され、ノロクモイ地(役地やくちとしてさずけられた土地)や俸給ほうきゅうなどが支給されました。しかし明治以降は、公的な地位はなくなり、ノロ(祝女)を受け継ぐ人も少なくなりました。

ヌルドゥンチ(祝女殿内)

ノロ(祝女)の住まいのことをいいます。「トゥンチ(殿内)」とは地頭じとう以上の役職やくしょくにある家をさす言葉ですが、ノロ(祝女)の住む屋敷にも「トゥンチ(殿内)」をつけてよびます。ヌルドゥンチ(祝女殿内)には代々のノロ(祝女)の位牌いはいとヒヌカン(火の神)がまつられています。


ノロ制度せいど

琉球王国時代、国王のオナリ神(兄弟を守護しゅごするといわれる姉妹神)である聞得大君きこえおおきみを頂点とした神女組織しんじょそしきが確立され、それにより沖縄の各ムラで行われていた祭祀さいしが国家的なものになり、国家祭祀をつかさどるノロ(祝女)は、王府から辞令書じれいしょが発給され「クージノロ(公儀祝女)」としてノロクモイ地(役地やくちとしてさずけられた土地)や俸給ほうきゅうが与えられ、公的に保障されました。

は行

廃藩置県はいはんちけん

1871年7月14日、日本本土のはんはいされ、と県に改められました。沖縄では、1879年3月27日、明治政府から命を受けた松田道之まつだみちゆき琉球処分官りゅうきゅうしょぶんかんとして警官160名と軍隊を率いて首里城正殿にのりこみ、尚泰しょうたい王に首里城からの退去を命じ、琉球藩を廃し、沖縄県を設置することを通達つうたつしました。

旗頭はたがしらのガーエー

旗頭とは、つな引き行事のときなどののぼりのことです。竿さおの長さは21しゃく(約6.3m)を基準とし、トゥール(灯篭とうろう)・ゴウ・サンマー・吹き流しなどをつけます。旗字はたじも地区によってさまざまです。ガーエーとは、勝負ごとをしているとき威勢いせいをつけるために大声を出しつつもみ合うという意味の沖縄の言葉です。

旗頭のガーエー
旗頭のガーエー

旗スガシ

旧暦7月16日、旧盆行事のあとに行われる悪霊払いの行事のことです。獅子舞やエイサー、棒を演じて村を清めるとされています。

ハチウビー

旧暦1月に行われる行事です。水と塩に感謝する日とされ、集落内の井戸や拝所はいしょおがみます。

8月カシチー

旧暦8月9日または10日にカシチー(強飯)をいて、ヒヌカン(火の神)や祖霊などに供える行事のことです。

ハチチブラー

中城村字添石に伝わる鬼面きめんのことです。屋号やごうイリジョー(西門)にまつられています。現在のハチチブラーは、1976年に、復元ふくげんされました。かつてのハチチブラーは沖縄戦で焼失したため、戦後一時期は、彫刻家ちょうこくか故・山田真山やまだしんざんにハチチブラーの絵を描いてもらい、それをおがんでいました。区民からの強い要望もあり、ラジオで製作を呼びかけたところ、奥平淳氏が引き受けてくれました。材料は、デイゴの木を利用し、髪は、北海道から馬の毛を取り寄せて作りました。僧侶そうりょを頼み、公民館で入魂式にゅうこんしきを行い、再びイリジョー(西門)にまつられました。

添石のハチチブラー
添石のハチチブラー

ビジュル

霊石れいせきのことです。霊石をまつる習俗しゅうぞくをビジュル信仰しんこうといいます。おもに沖縄本島にみられます。ビジュルは高さ15cm~1mくらいの自然石で、人型(ダルマ型)のものが多いといわれています。ビジュルを安置あんちした洞穴どうけつ石祠せきし神殿しんでんはティラ(テラ)と呼ばれます。中城村字安里には、4つの霊石をまつった安里のテラがあります。

夫地頭ぶじとう

間切まぎり(琉球王国時代の行政区分)の上級役人のことです。

武寧王ぶねいおう

生没年せいぼつねん1356~1406年 中山王ちゅうざんおう、在位10年(1396~1406年)。神号しんごう中之真物なかのまもの察度王さっとおうの長子。1395年に察度がぼっしたあと即位そくいしました。1406年に佐敷按司さしきあじであった尚巴志しょうはしほろぼされました。

ま行

ムーチー

沖縄本島の多くの地域では旧暦12月8日に行われますが、中城村内の古くからある集落では旧暦の12月7日に行います。家族、とくに子どもの健康を祈願きがんする行事です。ムーチー(餅)をサンニン(月桃げっとう)の葉で包んで神棚かみだなそなえたり、子どもの年の数だけ縄に結んでるす家庭もあります。

ムラウバギー

旧暦10月1日に行われる行事で、前年の旧暦10月1日から、その年の旧暦9月31日までに生まれた子どもの報告を行います。ウバギーとは、出産直後にかれる産飯うぶめしのことをいいます。

毛氏もううじ

毛國鼎もうこくてい護佐丸盛春ごさまるせいしゅん始祖しそとする琉球王国時代の士族の一族です。毛氏豊見城もううじとみぐすく大宗家だいそうけ(本家)は五大名門のひとつに数えられます。代々、豊見城間切まぎり(現豊見城市)の総地頭そうじとうつとめました。毛氏の名乗りがしらは「盛」です。

道ジュネー

芸能や祭りでのり行列のことを道ジュネーといいます。村のアシビナー(遊び庭)で奉納芸能ほうのうげいのうをする前に、村のウタキ(御嶽)や拝所はいしょの神々に顔見世かおみせをすることが目的です。

や行

屋宜やぎノロ

琉球王国時代、屋宜ノロは屋宜、当間、安里、奥間の祭祀さいしり行っていました。

屋取集落ヤードゥイしゅうらく

琉球王国時代の士族層しぞくそうのうち、何らかの理由で首里から各地に移り住み、定住した人々の集落のことをいいます。

山田按司やまだあじ

恩納村山田にある山田グスクの城主です。護佐丸の父(または祖父)といわれています。

ヤージンナトゥ(屋宜湊)

屋宜の海岸一帯いったいは「ヤージンナトゥ(屋宜湊)」とよばれ、かつてはみなとだったと伝えられています。18世紀後半に作成されたとされる間切集成図まぎりしゅうせいずにも「屋宜湊」と記されています。

ヤージンナトゥ(屋宜湊)
ヤージンナトゥ(屋宜湊)

ら行

琉球国由来記りゅうきゅうこくゆらいき

1713年に首里王府が編集した琉球王国の地誌ちしです。全21巻。琉球古来の祭祀さいしくわしく記されており、琉球の伝統的でんとうてきな社会を理解するにあたって基本的な本です。

里制・駅制

琉球王国を統一とういつした尚巴志しょうはし王が迅速じんそくな情報伝達のためにいた制度せいどだと考えられています。

わ行

若水わかみず

年の初め、1月1日の早朝、最初にむ水のことです。沖縄の言葉では「ワカミジ」といいます。若水は、村の古井戸や産水うぶみずを汲むウブカー(産井戸)などから汲みます。汲んできた若水は、ヒヌカン(火の神)、神棚かみだな、床の間などにそなえます。

倭寇わこう

13~16世紀にかけて、朝鮮ちょうせん・中国大陸沿岸部をらした海賊かいぞくのことをいいます。

(参考:沖縄タイムス大百科事典、沖縄民俗辞典)