糸蒲遺跡(いとかまいせき)

南上原の東端標高約150mの丘陵(きゅうりょう)にあります。現在は糸蒲(いとかま)公園になっており、その公園内の東側に糸蒲遺跡(いとかまいせき)があります。

遺跡は、糸蒲門中(いとかまもんちゅう)が現在の津覇集落へと移住する前の集落跡といわれています。遺跡からは、グスク土器や白磁(はくじ)などが出土(しゅつど)しています。

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南上原のユクヤー

古くからハンタ道を通る人々の休息場所だったことから「ユクヤー」と呼ばれていました。明治後半から昭和10年代まで南上原を中心に周辺地域から若い男女が集まりモーアシビー(毛遊び)の場所としても利用されていました。

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北上原のユクヤー

奥間集落の上方にあり、地元では「ウクマモー(奥間毛)」と呼ばれています。奥間集落から坂道を上ってきたり、ハンタ道を通る人々の休息場所だったことから「ユクヤー」とも呼ばれていました。明治後半から昭和10年代まで北

上原を中心に周辺地域から若い男女が集まりモーアシビー(毛遊び)の場所として利用されていました。

安里壱里山(あさといちりやま)

壱里山とは、琉球王国時代につくられた道の目印のようなものです。首里グスクから一里(約4km)おきにつくられ、中城ではこの場所に一里山が(もう)けられました。1646年の「正保三年琉球国絵図帳(しょうほうさんねんりゅうきゅうこくえずちょう)」に「安里壱里山」と記されています。ここでは明治から昭和の初期頃まで、北上原の東側に住んでいた人々が、毎年秋に集まって農事の成績を品評するハルヤマスーブ(原山勝負)や学事奨励会(がくじしょうれいかい)や宴会など地域の行事を行う場所として活用していました。

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北上原の標高161mほどの頂上にあります。この山の頂上一帯(いったい)は奥間集落発祥(はっしょう)の地で、現在でも奥間集落の人々に拝まれています。1944年頃、日本軍によりキシマコの嶽の上部にトーチカが構築されました。ここから、北は北谷町、読谷村、南は浦添から知念半島辺りまで一望できます。

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若南原(ワカナンバル)の石畳

県道35号線から南側低地の間にある若南ビラ(坂)は戦後間もない頃まで石畳が残っていましたが、長い年月の間に崩れてしまい、現在は坂の南側に一部が残っています。

石畳は、120cmから150cm間隔で止め石を置き、段差を作り、その上に石が()かれていました。使用されている石材は琉球石灰岩(りゅうきゅうせっかいがん)です。石畳がつくられた正確な時期ははっきりしていませんが、周辺から発掘された遺物や聞き取り調査などから近世以降のものと考えられます。

新垣の石橋

新垣集落内の畑地沿いに流れている小川にかけられたアーチ型の石橋です。昭和18年頃、当地域の石工(いしく)徴兵(ちょうへい)で残った人と共に亀甲墓(かめこうばか)をつくる技術を駆使(くし)してつくったと伝えられている石橋です。

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県道開削記念碑(けんどうかいさくきねんひ)

1934年10月、県道普天間(ふてんま)与那原線(よなばるせん) (現県道35号線)の開通を記念し建立(こんりゅう)されました。県道ができるまでの経緯(けいい)や伊佐善俊(ぜんしゅん)親子の尽力(じんりょく)がこの()に記されています。

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新垣のミージャーガー

大岩の根元の岩陰(いわかげ)から湧水(わきみず)が出ています。ミーヤ(屋号:新屋)の犬が発見したので、ミーヤーガーと呼ばれていましたが、後にミージャーガーとなったといわれています。

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ツンマース

この場所は道の分岐点となっており、東側に行くと新垣グスク、ペリーの旗立岩、中城グスクへと向かい、西側は宜野湾へと続いています。

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ニードゥクル(根所)

新垣の創始者(そうししゃ)屋敷跡(やしきあと)と伝えられています。戦前まで瓦葺(かわらぶき)の屋敷跡が残っていました。現在はコンクリート製の(ほこら)と井戸跡、フール(豚小屋兼トイレ)跡、また入口付近に石畳が残っています。

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トゥン(殿)

新垣集落の北側にあります。ウタキ(新垣ノ嶽)から約60m東側には広場があり、海石(うみいし)とコンクリートでつくられた(ほこら)があります。祠の中には、自然石と香炉(こうろ)が置かれています。

新垣グスク

新垣集落の北側170m前後にあり、地元ではウタキと呼ばれています。石積みはほとんどありません。築城年代は不明ですが、出土した遺物から14世紀前半ごろと推定されています。

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ペリーの旗立岩

新垣グスクの北側、標高160m程の台地にある10数mの琉球石灰岩(りゅうきゅうせっかいがん)の大岩で、地元ではターチャーイシ(二つ岩)と呼ばれています。1853年にアメリカのペリー提督率いる黒船艦隊が、沖縄本島の調査をした際、この岩山の周辺で休憩(きゅうけい)し、その時に岩山の上に旗を立て、記念に祝砲(しゅくほう)()ったとされています。

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ギイスノテラ

中城グスクの南西部にある拝所(はいしょ)です。昔、添石村に住むマス島袋の先祖が、霊石を安置(あんち)祭祀(さいし)を行ったのが始まりとされています。

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喜石原古墓群(きいしばるふるばかぐん)

中城グスクの南西方向に300あまりの古墓(ふるばか)が点在しています。

墓の種類は風葬墓(ふうそうばか)掘込墓(ほりこみばか)破風墓(はふばか)亀甲墓(かめこうばか)など多種多様で、中城村における墓の種類、葬制(そうせい)石造技術(せきぞうぎじゅつ)を知る上でも貴重(きちょう)な場所です。また、ペリー艦隊大琉球奥地探検隊(かんたいだいりゅうきゅうおくちたんけんたい)が沖縄本島を北上する時、古墓群のそばを通った時の様子が『日本遠征記(にほんえんせいき)』の中にスケッチとともに記されています。

ヌンドゥンチの墓

中城グスクの祭祀(さいし)(つかさど)っていたヨキヤノロの一族のお墓です。喜石原古墓群(きいしばるふるばかぐん)内にあり、中城グスクに近いハンタ道西側斜面(しゃめん)地にあります。

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雷岩(かみなりいわ)

中城グスクの正門から南西方向に約200mの位置にある琉球石灰岩(りゅうきゅうせっかいがん)の大岩です。この岩に雷がよく落ちたことから、地元では雷岩(かみなりいわ)と呼ばれています。

雷岩のある場所は、集落を結ぶ道、新垣グスクから首里へとのびるハンタ道、宜野湾方面へ行く道の3つの道が交わる地点であり、雷岩は目印となっていました。

中城グスク

標高167mの丘陵上(きゅうりょうじょう)にあります。13世紀ごろ、先中城按司(さちなかぐすくあじ)が数世代にわたってつくった後、座喜味グスクから移ってきた護佐丸によって三の郭と北の郭が増築されました。

2000年、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」のひとつとして世界遺産に登録されました。

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歴史の道「中城ハンタ道」

歴史の道「中城ハンタ道」は、12世紀ごろ集落(しゅうらく)をつなぐ道として開通(かいつう)し、14世紀前半に中山王尚巴志(ちゅうざんおうしょうはし)によって整備(せいび)されたと考えられる道です。首里グスクを起点(きてん)とし、幸地(こうち)グスク(西原)、新垣グスクや中城グスクを通り、勝連(かつれん)方面に向かっています。中城ハンタ道の周辺(しゅうへん)には、中城の歴史を物語る文化財(ぶんかざい)がいくつも残されています。

ポイントをクリックして、文化財(ぶんかざい)をみてみましょう。

用語解説

(参考:沖縄タイムス大百科事典、沖縄民俗辞典)

あ行

按司あじ

12世紀ごろから現れたとされる琉球各地の政治的な支配者のことです。琉球王府の時代には位階名となります。「中城按司」など、支配する領域りょういきの地名をつけて呼ばれます。

伊寿留いじゅるん

護佐丸の兄と伝えられています。山田按司あじの長男として生まれますが、争いごとを好まなかったため、父の後を継がず中城の地で農業にはげんだといわれています。伊寿留の墓は中城グスクの東側にあり、子孫である伊舎堂安里家が管理しています。

ウガンブトゥチ(御願解き)

旧暦12月24日に行われる、トートーメー(仏壇ぶつだん)やヒヌカン(火の神)などに1年の感謝を報告する行事です。

ウスデーク(臼太鼓)

女性たちが踊る祭祀舞踊さいしぶようのことです。

御嶽ウタキ

沖縄の村落祭祀そんらくさいしにおいて重要な聖地せいちのことを御嶽ウタキといいます。他にウガン、ムイなどとよばれています。

産水うぶみず

出産後の赤子あかごびせたり、産後のきよめのためにひたい産水をなでつける「ウビナディ(お水撫みずなで)」を行うための水です。

ウマチー

沖縄のむぎいねにかかわる4つのお祭りのことです。2月(麦穂祭)・3月(麦大祭)・5月(稲穂祭)・6月(稲大祭)に行われます。現在、麦作が衰退すいたいしているため多くの村落そんらくでは2月と3月のウマチーが廃止はいしされ、5月と6月のウマチーを行う所が多いと言われています。

ウハチー

旧暦6月23日にいね収穫しゅうかくを祝い、その年にとれた作物を神にささげる行事です。

御涼傘ウリャンサン

国王の外出時にかざりとして使われる絹張きぬばりの大傘おおがさ。黄染めの黄御涼傘ウリャンサンと赤みをびたオレンジ色の赤御涼傘ウリャンサンがある。

駅制・里制

琉球王国を統一とういつした尚巴志しょうはし王が迅速じんそくな情報伝達のためにいた制度せいどだと考えられています。

大城賢雄(鬼大城)おおしろけんゆう うにうふぐすく

生没年不詳、第一尚氏王統6代目尚泰久しょうたいきゅう王に仕えた武将です。人々から「鬼大城」と呼ばれていました。阿麻和利あまわり討伐とうばつ後、百度踏揚ももとふみあがりを妻にし、越来ごえくグスクの城主となりました。その後、第二尚氏王統にほろぼされたと伝わっています。

おもろさうし

1531年~1623年、三回にわたって首里王府が奄美・沖縄に伝わる「おもろ(祭祀歌謡さいしかよう)」を集めた沖縄最古の歌謡集かようしゅうです。全22巻で1554首のおもろがおさめられています。おもろは古琉球の民俗みんぞく・思想・社会・歴史などを反映するもので、沖縄の伝統でんとう文化・文学・宗教・思想・社会構造こうぞうなどを考えるうえで大切な資料です。原本は1709年の首里城の火事で焼失しました。1710年に再編集された『尚家本しょうけぼんおもろさうし』は、国の重要文化財に指定されています。

か行

皇民化政策こうみんかせいさく

沖縄戦以前まで、当時の日本政府が沖縄において行った強制的な日本化政策のことです。住民に対してこれまで使用していたウチナーグチ(沖縄語)ではなく、日本語を使うことを強制し、神社の建設や参拝さんぱい、日の丸の掲揚けいよう、君が代の斉唱せいしょうなどといった皇民化教育が行われました。

カママーイ

かまどまわりのことで、旧暦10月1日におこなわれる年中行事です。火災予防の目的で集落内をまわり、各家庭でも火の用心をしました。

亀甲墓かめこうばか

屋根の部分が亀甲状きっこうじょうになっているお墓です。「カーミナクーバカ」と呼ばれています。亀甲墓は母体をかたどったものであるといい、人は死ぬと再びもとのところへ帰るという思想のあらわれといわれています。沖縄でもっとも古い亀甲墓は、中城村久場の護佐丸の墓、那覇市首里石嶺町にある伊江御殿家いえドゥンチけの墓(1687年)といわれています。一般に広く流行したのは、明治中期から大正・昭和にかけてだと考えられています。

龕屋ガンヤー

死者を墓場までかつ輿こしを保管する建物です。

帰農士族きのうしぞく

琉球王国時代の士族層しぞくそうのうち、何らかの理由で首里から各地に移り住み、定住した人々のことをいいます。その人々が形成した集落は「屋取集落ヤードゥイしゅうらく」とよびます。

義本王ぎほんおう

生没年せいぼつねん1206~ ? 舜天王統しゅんてんおうとう3代目の王と伝えられる人物です。在位ざいいは11年(1249~1259年)。琉球王国の正史『中山世譜ちゅうざんせいふ』によると、1249年に義本が即位そくいした頃、国中に飢饉ききん疫病えきびょう流行はやったため人民の半数が死にました。そこで群臣ぐんしんのすすめで英祖えいそという人物に国政をとらせたところわざわいがおさまったので、義本は1259年、英祖に位をゆずり、消息不明となったと記されています。義本王の墓と伝えられるものが北中城村仲順ちゅんじゅん、国頭村辺戸へどなど数カ所にあります。

クシデーガミ(腰当神)

「クサティ」ともいいます。沖縄の家や集落しゅうらく背後はいごにある山やおかがけ・森などのことです。沖縄の言葉で「支えやたよりにされる存在」という意味があります。

護佐丸ごさまる

生没年1390?~1458年。山田グスク城主の三男に生まれ、琉球王国統一とういつ活躍かつやくした武将ぶしょうです。第一尚氏王統しょうしおうとう6代までの王につかえた忠臣ちゅうしんと伝わっています。座喜味グスクや中城グスクを築いた築城家ちくじょうかとして知られています。  

軽便鉄道ケービンてつどう

1914年から1945年の初めまで、沖縄県によって経営けいえいされていた鉄道です。与那原線・嘉手納線・糸満線・海陸連絡船(那覇駅―那覇港)があり、距離は48.03kmありました。沖縄戦で破壊はかいされるまで、陸上の輸送ゆそうに重要な鉄道でした。

権現ごんげん

ほとけ菩薩ぼさつが、人間をはじめとするすべての生物を救うために、かりに人間などの姿になって現れることをいいます。

さ行

サングヮチャー

旧暦3月3日の行事のことです。「サングヮチサンニチ」とも呼ばれています。とくに女性が浜下はまおりをし、やくを落とします。また各家では、ヨモギ餅を中心としたそなえ物を仏壇ぶつだんやヒヌカン(火の神)にそなえて健康祈願けんこうきがんを行います。

先中城按司さちなかぐすくあじ

14世紀中頃に中城グスクをきずいた按司あじです。先中城按司の一族が数世代にわたって、南のかく、西の郭、一の郭、二の郭を築造ちくぞうしたと伝わっています。

識名村しきなむら

かつて中城にあった村のひとつで、地滑じすべりにより壊滅かいめつしたと伝わっています。中城村字屋宜の統合拝所とうごうはいしょには、識名村の人々への供養くようのために建てられたと伝えられるカクリジカと呼ばれる拝所はいしょがあります。

地頭職じとうしょく

領地りょうちをもつさむらいで、近世の役職やくしょくです。地頭とは、地頭地をさずけられた者のことです。1村を領する者を脇地頭わきじとう、1間切まぎりを領する者を総地頭そうじとうとよび、区別されます。按司あじはもともと間切を領する者のため按司地頭あじじとうともいいます。総地頭そうじとうとあわせて両総地頭りょうそうじとうともいいます。

宿次しゅくつぎの道

首里王府しゅりおうふの急ぎの文書を各間切まぎりに伝達することを「宿次しゅくつぎ」といいます。琉球王国を統一した尚巴志が駅制をほどこした時に整備されたと考えられています。

シマクサラシ

疫病えきびょう風邪かぜ悪霊あくりょうが集落や家の中に入らないように行われる行事のことです。神役かみやく御嶽ウタキ線香せんこう花米ハナグミをおそなえしておがみ、さらに動物(牛・馬・山羊やぎぶたなど)を切殺きりころし、ワラなわをなってその血でめ、外から災厄さいやくが入らないよう村の入口に縄を張ったり、屋敷やしき四隅よすみつるします。動物の骨をつるす地域もあります。

スガチミチ(潮垣線)

海岸線に沿って中城から西原へと続く道で、現在の潮垣線(しおがきせん)にあたります。かつてはこの道の近くまで海だったといいます。

添石ノロ

添石、泊、新垣をはじめ、中城グスク内の拝所はいしょ祭祀さいしり行っていたノロです。

た行

タントゥイ(種取祭)

いね種子しゅし苗代なわしろ(田植えの前に、稲の種をまいて苗を育てる田のこと)にまく種子しゅしおろしの行事のことです。

タントゥイモー(種取毛)

翌年の種子取しゅしとりを無事に終えたことをよろこぶ祭りを行う場所のことです。

チナーウタキ

奥間集落の後方にあるチナーヤマ(喜納山)にあった拝所はいしょです。1713年、首里王府によって編集された『琉球国由来記りゅうきゅうこくゆらいき』にもその名が記されていることから、300年以上の歴史をもつ古い拝所であることがわかります。神名かみなは「奥間森比喜うくまもいひきセジノイベ」と記されています。1970年頃、土砂崩どしゃくずれによりチナーウタキ(喜納ノ嶽)は流され地中にもれてしまいましたが、現在は、チナーヤマ(喜納山)にあったとされる按司墓あじばかとキシマコノ嶽(シマクのウガン)の遥拝所ようはいじょとともに、奥間集落後方の以前とは異なる山中に合祀ごうしされています。

照屋村てるやむら

中城グスクの東側下方と、現在、沖縄成田山福泉寺の敷地となっている周辺一帯いったいに、それぞれ添石村と照屋村があったと伝えられています。1713年に首里王府によって編さんされた『琉球国由来記りゅうきゅうこくゆらいき』に「照屋村」の記載きさいがありますが、その後17世紀後半から18世紀に前半にかけて添石村に統合とうごうされたと考えられています。

トゥン(殿)

沖縄本島において拝所はいしょ祭祀場さいしじょうを意味する語。トゥン(殿)は、村落内で神をまつったり、来訪神らいほうしんを迎えたりする場ですが、時には草分けの家:ニーヤ(根屋)の屋敷内におかれていることもあることから、集落の発祥はっしょうの地ともとらえられています。

な行

ナージキ

かつて沖縄にあった習俗しゅうぞくのひとつで、赤子の「命名式」のことです。出産日から7日までの間に行われました。

中城国民学校なかぐすくこくみんがっこう

1941年、「国民学校令」により、中城尋常じんじょう小学校は中城国民学校になりました。現在の中城小学校のことです。

中城間切番所なかぐすくまぎりばんじょ

番所ばんじょとは、琉球王国時代の間切まぎりの行政の拠点きょてんとなった役所のことです。現在の町村役場にあたります。中城間切番所は、中城城跡内にありました。

南山なんざん

沖縄本島南部のことで、三山分立時代(12~13世紀頃)、南山王の支配下しはいかにあった地域です。

ニーガン(根神)

沖縄本島と周辺離島りとうにおいて、村落そんらくの草分けの家やその一門から選出される女性祭祀さいし者のことを「ニーガン(根神)」いいます。村落祭祀において重要な神役かみやくのひとつです。

ニーヤ(根屋)

沖縄の集落の中でムラの発祥はっしょう伝承でんしょうにかかわる最も古いとされる家のことです。

ニッチュ(根人)

沖縄本島と周辺離島において、村落そんらくの草分けの家から選出される男性祭司さいし者のことです。草分けの家の当主が代々、ニッチュ(根人)を継承けいしょうしました。

ニングヮチャー

旧暦2月2日に行われた行事です。いねや豆などの作物の植え付けがひと段落する頃で、一休み(腰休こしやすめ)という意味の沖縄語で「クシユックィー」ともいいます。今でいう慰労会いろうかいのようなものです。

ヌル

またはノロ(祝女)。沖縄の民間信仰しんこうでは、女性のセジ(霊力)が重視され、村落そんらく祭祀さいしを行う神女しんじょとして古くから、ノロ(祝女)と呼ばれる神役かみやくが存在していました。沖縄で按司あじがいた頃から存在していたとされるノロ(祝女)は、やがて琉球王国の政治的組織に組み込まれるようになると、辞令書じれいしょをもって任命され、ノロクモイ地(役地やくちとしてさずけられた土地)や俸給ほうきゅうなどが支給されました。しかし明治以降は、公的な地位はなくなり、ノロ(祝女)を受け継ぐ人も少なくなりました。

ヌルドゥンチ(祝女殿内)

ノロ(祝女)の住まいのことをいいます。「トゥンチ(殿内)」とは地頭じとう以上の役職やくしょくにある家をさす言葉ですが、ノロ(祝女)の住む屋敷にも「トゥンチ(殿内)」をつけてよびます。ヌルドゥンチ(祝女殿内)には代々のノロ(祝女)の位牌いはいとヒヌカン(火の神)がまつられています。


ノロ制度せいど

琉球王国時代、国王のオナリ神(兄弟を守護しゅごするといわれる姉妹神)である聞得大君きこえおおきみを頂点とした神女組織しんじょそしきが確立され、それにより沖縄の各ムラで行われていた祭祀さいしが国家的なものになり、国家祭祀をつかさどるノロ(祝女)は、王府から辞令書じれいしょが発給され「クージノロ(公儀祝女)」としてノロクモイ地(役地やくちとしてさずけられた土地)や俸給ほうきゅうが与えられ、公的に保障されました。

は行

廃藩置県はいはんちけん

1871年7月14日、日本本土のはんはいされ、と県に改められました。沖縄では、1879年3月27日、明治政府から命を受けた松田道之まつだみちゆき琉球処分官りゅうきゅうしょぶんかんとして警官160名と軍隊を率いて首里城正殿にのりこみ、尚泰しょうたい王に首里城からの退去を命じ、琉球藩を廃し、沖縄県を設置することを通達つうたつしました。

旗頭はたがしらのガーエー

旗頭とは、つな引き行事のときなどののぼりのことです。竿さおの長さは21しゃく(約6.3m)を基準とし、トゥール(灯篭とうろう)・ゴウ・サンマー・吹き流しなどをつけます。旗字はたじも地区によってさまざまです。ガーエーとは、勝負ごとをしているとき威勢いせいをつけるために大声を出しつつもみ合うという意味の沖縄の言葉です。

旗頭のガーエー
旗頭のガーエー

旗スガシ

旧暦7月16日、旧盆行事のあとに行われる悪霊払いの行事のことです。獅子舞やエイサー、棒を演じて村を清めるとされています。

ハチウビー

旧暦1月に行われる行事です。水と塩に感謝する日とされ、集落内の井戸や拝所はいしょおがみます。

8月カシチー

旧暦8月9日または10日にカシチー(強飯)をいて、ヒヌカン(火の神)や祖霊などに供える行事のことです。

ハチチブラー

中城村字添石に伝わる鬼面きめんのことです。屋号やごうイリジョー(西門)にまつられています。現在のハチチブラーは、1976年に、復元ふくげんされました。かつてのハチチブラーは沖縄戦で焼失したため、戦後一時期は、彫刻家ちょうこくか故・山田真山やまだしんざんにハチチブラーの絵を描いてもらい、それをおがんでいました。区民からの強い要望もあり、ラジオで製作を呼びかけたところ、奥平淳氏が引き受けてくれました。材料は、デイゴの木を利用し、髪は、北海道から馬の毛を取り寄せて作りました。僧侶そうりょを頼み、公民館で入魂式にゅうこんしきを行い、再びイリジョー(西門)にまつられました。

添石のハチチブラー
添石のハチチブラー

ビジュル

霊石れいせきのことです。霊石をまつる習俗しゅうぞくをビジュル信仰しんこうといいます。おもに沖縄本島にみられます。ビジュルは高さ15cm~1mくらいの自然石で、人型(ダルマ型)のものが多いといわれています。ビジュルを安置あんちした洞穴どうけつ石祠せきし神殿しんでんはティラ(テラ)と呼ばれます。中城村字安里には、4つの霊石をまつった安里のテラがあります。

夫地頭ぶじとう

間切まぎり(琉球王国時代の行政区分)の上級役人のことです。

武寧王ぶねいおう

生没年せいぼつねん1356~1406年 中山王ちゅうざんおう、在位10年(1396~1406年)。神号しんごう中之真物なかのまもの察度王さっとおうの長子。1395年に察度がぼっしたあと即位そくいしました。1406年に佐敷按司さしきあじであった尚巴志しょうはしほろぼされました。

ま行

ムーチー

沖縄本島の多くの地域では旧暦12月8日に行われますが、中城村内の古くからある集落では旧暦の12月7日に行います。家族、とくに子どもの健康を祈願きがんする行事です。ムーチー(餅)をサンニン(月桃げっとう)の葉で包んで神棚かみだなそなえたり、子どもの年の数だけ縄に結んでるす家庭もあります。

ムラウバギー

旧暦10月1日に行われる行事で、前年の旧暦10月1日から、その年の旧暦9月31日までに生まれた子どもの報告を行います。ウバギーとは、出産直後にかれる産飯うぶめしのことをいいます。

毛氏もううじ

毛國鼎もうこくてい護佐丸盛春ごさまるせいしゅん始祖しそとする琉球王国時代の士族の一族です。毛氏豊見城もううじとみぐすく大宗家だいそうけ(本家)は五大名門のひとつに数えられます。代々、豊見城間切まぎり(現豊見城市)の総地頭そうじとうつとめました。毛氏の名乗りがしらは「盛」です。

道ジュネー

芸能や祭りでのり行列のことを道ジュネーといいます。村のアシビナー(遊び庭)で奉納芸能ほうのうげいのうをする前に、村のウタキ(御嶽)や拝所はいしょの神々に顔見世かおみせをすることが目的です。

や行

屋宜やぎノロ

琉球王国時代、屋宜ノロは屋宜、当間、安里、奥間の祭祀さいしり行っていました。

屋取集落ヤードゥイしゅうらく

琉球王国時代の士族層しぞくそうのうち、何らかの理由で首里から各地に移り住み、定住した人々の集落のことをいいます。

山田按司やまだあじ

恩納村山田にある山田グスクの城主です。護佐丸の父(または祖父)といわれています。

ヤージンナトゥ(屋宜湊)

屋宜の海岸一帯いったいは「ヤージンナトゥ(屋宜湊)」とよばれ、かつてはみなとだったと伝えられています。18世紀後半に作成されたとされる間切集成図まぎりしゅうせいずにも「屋宜湊」と記されています。

ヤージンナトゥ(屋宜湊)
ヤージンナトゥ(屋宜湊)

ら行

琉球国由来記りゅうきゅうこくゆらいき

1713年に首里王府が編集した琉球王国の地誌ちしです。全21巻。琉球古来の祭祀さいしくわしく記されており、琉球の伝統的でんとうてきな社会を理解するにあたって基本的な本です。

里制・駅制

琉球王国を統一とういつした尚巴志しょうはし王が迅速じんそくな情報伝達のためにいた制度せいどだと考えられています。

わ行

若水わかみず

年の初め、1月1日の早朝、最初にむ水のことです。沖縄の言葉では「ワカミジ」といいます。若水は、村の古井戸や産水うぶみずを汲むウブカー(産井戸)などから汲みます。汲んできた若水は、ヒヌカン(火の神)、神棚かみだな、床の間などにそなえます。

倭寇わこう

13~16世紀にかけて、朝鮮ちょうせん・中国大陸沿岸部をらした海賊かいぞくのことをいいます。

(参考:沖縄タイムス大百科事典、沖縄民俗辞典)