年代 年号 出来事
14世紀 先中城按司(さちなかぐすくあじ)によって中城が築城される
1440年ごろ 護佐丸が読谷山(ゆんたんざん)から移り中城按司(あじ)となり、三の郭・北の郭を増築する
1458年 阿麻和利(あまわり)讒言(ざんげん)により護佐丸(ごさまる)ほろぼされる(護佐丸・阿麻和利の乱)
1471年 朝鮮の甲叔舟(しんしゅくしゅう)が『海東諸国紀(かいとうしょこくき)』を記す。中城グスクが「中具足城」として文献上はじめて登場する。
17世紀ごろ 中城間切(まぎり)世子領(せしりょう)となり中城グスクは王子所有のものとなる
1729年 中城間切番所(ばんじょ)設置(『球陽(きゅうよう)』)より
1853年 ペリー奥地探検隊が中城グスクを訪れ調査・測量を行う
1881年 明治14年 沖縄県令上杉茂憲(うえすぎもちのり)が中城グスクを訪れる
1882年 明治15年 一の郭内の間切番所の一室を教室にあて中城小学校が開校する
1886年 明治19年 城郭東側の広場に瓦葺1棟4教室を建て中城小学校を移す
1897年 明治30年 中城間切番所は中城間切役場と改称される
1908年 明治41年 中城間切役場は中城村役場となり、庁舎は引き続きグスク内の番所が使用される
1915年 大正 4年 二の郭に忠魂碑(ちゅうこんひ)建立(こんりゅう)される
1920年 大正 9年 中城小学校が屋宜に移転されたことにより、跡地が馬場になる
1945年 昭和20年 沖縄戦により一の郭内にあった村役場は破壊される
1946年 昭和21年 中城村役場は奥間に再建されたためグスク内は無人となる
1947年 昭和22年 11月5日 民政府(琉球側)が、中城村長渡嘉敷親睦(とかしきしんぼく)に中城城跡の公園指定を内命(ないめい)する
11月23日 中城村長が軍政府へ呼ばれ、公園計画の提示(ていじ)を受ける
1948年 昭和23年 7月~9月 中城公園整地事業が行われる
9月 公園工事着手
1949年 昭和24年 12月12日 中城村議会において中城公園の運営形態(うんえいけいたい)について、村と民間の共同経営の方針(ほうしん)を決める
1950年 昭和25年 2月 公園施設(売店、遊技場(ゆうぎじょう)、闘牛場、レストラン)が完成する
2月1日 中城公園株式会社が設立される。
2月19日 民政府指令により公園許可がなされる
1950年 昭和25年 3月5日 中城公園の開園式が行われる
1955年 昭和30年 1月25日 琉球政府文化財保護委員会(りゅうきゅうせいふぶんかざいほごいいんかい)により、史跡(しせき)名勝(めいしょう)重要文化財(じゅうようぶんかざい)(建造物)に指定される
7月19日 中城公園の営業権が村から民間へ移される
1958年 昭和33年 4月17日 琉球政府文化財保護委員会により、特別史跡(とくべつしせき)に指定される
1961年 昭和36年 琉球政府による中城城跡石垣修復事業開始
1962年 昭和37年 琉球政府文化財保護委員会により、特別重要文化財(とくべつじゅうようぶんかざい)に指定される
1968年 昭和43年 琉球政府による中城城跡石垣修復事業終了
1972年 昭和47年 5月15日 沖縄県の日本復帰にともない国指定史跡(くにしていしせき)となる
1992年 平成 4年 4月1日 公有化事業により管理権が民間から中城村・北中城村に戻る
1994年 平成 6年 10月1日 中城村・北中城村による中城城跡共同管理協議会設立
1995年 平成 7年 6月 中城村による中城城跡の整備事業を開始
1999年 平成11年 6月25日 中城城跡の世界文化遺産登録へ推薦(すいせん)が文化庁で正式決定される
2000年 平成12年 12月2日 「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界文化遺産に登録
2006年 平成18年 3月3日 日本の名城100選に選ばれる

先中城按司(さちなかぐすくあじ)による築城(ちくじょう)(14世紀)

 中城グスクは、先中城按司(さちなかぐすくあじ)の一族によって(きず)かれました。先中城按司とは、護佐丸よりも前(先)の中城按司であったことから先中城按司と呼ばれます。初代の先中城按司は、(デー)グスクに住んでいたといわれ、2代目の先中城按司によって14世紀中頃から中城グスクを築きはじめたといわれています。その後、長い年月をかけて(いち)(かく)()(かく)(みなみ)(かく)西(にし)(かく)を築き移り住みました。先中城按司の築城した部分は野面積(のづらづ)みと布積(ぬのづ)みと呼ばれる石積み技法(ぎほう)によって築かれています。
 4代目先中城按司の頃、護佐丸(ごさまる)が中城グスクに移ることになり、先中城按司は、現在の糸満市真栄里(まえざと)に移り、移住先で先中城(さちなかぐすく)グスク(真栄里グスク)を築きました。
 真栄里の伝承では、護佐丸(ごさまる)が滅ぼされたとき、赤ん坊だった息子の盛親(もりちか)乳母(うば)国吉ヌ比屋(クニヨシヌヒヤー)に守られて、先中城グスクに(かくま)われたと伝わっています。また、盛親は当時の先中城按司に武術(ぶじゅつ)を教わりながら成長したという伝承(でんしょう)も残されています。(糸満市史編集委員会 2013年)

護佐丸(ごさまる)による増築(ぞうちく)(1440年ごろ)

 1440年頃に、護佐丸(ごさまる)中山王(ちゅうざんおう)の命によって読谷山(ユンタンザン)から中城に移り中城按司として中城グスクの城主となりました。
 護佐丸は、阿麻和利(あまわり)策略(さくりゃく)によって滅ぼされるまでの間に、(きた)(かく)井戸郭(いどかく))と(さん)(かく)増築(ぞうちく)し、城塞(じょうさい)として中城グスクを強化(きょうか)させました。三の郭はミーグスク(新城)と呼ばれています。護佐丸の指示による増築の跡は、石積みの違いから見る事ができ、相方積(あいかたづ)みと呼ばれる最高の石積み技術によって築かれています。

護佐丸(ごさまる)阿麻和利(あまわり)(らん) (1458年)

 1458年、勝連城主(かつれんじょうしゅ)阿麻和利(あまわり)策略(さくりゃく)によって護佐丸は滅ぼされました。この事件を「護佐丸・阿麻和利の乱」といいます。護佐丸・阿麻和利の乱は、首里王府(しゅりおうふ)が編さんした正史『中山世譜(ちゅうざんせいふ)』や『球陽(きゅうよう)』に記されており、琉球王国(りゅうきゅうおうこく)でも大きな事件として取り上げられていたことが(うかが)えます。
 歴史資料によると、護佐丸は中城グスクに向けられた王府軍に対して、最後まで国王に対する忠臣を貫くため、戦わずして家族・部下とともに自害(じがい)したと記されています。これが、護佐丸が現在に(いた)るまで「忠臣」として名を残すことになった所以(ゆえん)といえます。
 しかし、19世紀後半に護佐丸の子孫によって記された『異本毛氏先祖由来記(いほんもううじせんぞゆらいき)』によると、護佐丸はすぐに自害をしたのではなく、国王に対する忠臣を貫くため、阿麻和利が率いる軍と戦い、これでは勝てないと思い自害したと記されています。

④『海東諸国紀(かいとうしょこくき)(1471年)

中城グスクの名前が出てくるもっとも古い文献は、1471年に朝鮮王の命により琉球を訪れた甲叔舟(しんしゅくしゅう)が記した『海東諸国紀(かいとうしょこくき)』です。その中にある「琉球国(りゅうきゅうこく)()」に「中具足城」と記されています。

中城(なかぐすく)グスクと世子領(せしりょう)(17世紀ごろ)

 護佐丸の自害後、中城グスクは城主のいない時期がありました。しかし16世紀後半から中城間切は世子(せし)次代国王(じだいこくおう)世継(よつぎ))の領地(りょうち)である世子領(せしりょう)となり、同時に中城グスクも王子の所有(しょゆう)となりました。
 中城間切が王族の領地となったのは第二尚氏王統(だいにしょうしおうとう)の三代目尚真王(しょうしんおう)在位期間(ざいいきかん):1477~1527年)の頃からだといわれ、尚真王の息子である尚清(しょうせい)(第二尚氏王統4代目国王:1497~1555年)に中城を領地として与えたのが最初だといわれています。その後、中城間切は世子の領地として扱われるようになり、世子のことを中城王子(なかぐすくおうじ)と呼ぶようになりました。
 尚質王(しょうしつおう)代(在位期間:1648~ 1668年)になると、世子を中城王子と呼ぶことが正式に(さだ)められ、同時に王族以外で「中城」という文字の使用や「なかぐすく」という呼び方を禁止しました。そのため、各地で中城を称していた集落や間切は次々と名前を改めました。この時に中城村から伊舎堂村へと名前が改められました。
 一方で、中部の中城間切は「なかぐすく」という呼び方を変えることなく、漢字だけが変更され「仲城間切」となり、その後「なかぐすく」という呼び名は中部にある仲城間切のみとなり、世子領も仲城間切を指す事となりました。
【中城を領地としていた王子たち】
尚清(しょうせい)
 第二尚氏3代目国王・尚真王(しょうしんおう)の5男。第二尚氏4代目国王。首里玉陵(たまうどぅん)の完成記念碑である「たまおとんのひもん」(1501年)に「中くすくのあんし(王子) まにきよたる」と書かれていることから、中城を領地として与えられたことが(うかが)えます。
尚禎(しょうてい)
 尚清王の長男。若くして亡くなったため、王位には就きませんでした。
尚熙島添大里王子朝長(しょうきしまぞえおおざとおうじともなが)
 任期は1590年代と推察され、20数年間在任していたと考えられています。
尚豊(しょうほう)
 第二尚氏8代目国王。長い間佐敷王子となっていましたが、王位継承が決まって以降は中城を領していました。
尚文(しょうぶん)
 尚豊(しょうほう)の次男。若くして亡くなったために王位に就くことはありませんでした。
尚質(しょうしつ)
 第二尚氏王統10代目国王。
尚貞(しょうてい)
 第二尚氏王統11代目国王。
尚純(しょうじゅん)
 尚貞(しょうてい)の長男。若くして亡くなったために王位に就くことはありませんでした。
尚益(しょうえき)
 尚純(しょうじゅん)の長男。第二尚氏王統12代目国王。
尚敬(しょうけい)
 第二尚氏王統13代目国王。
尚哲(しょうてつ)
 第二尚氏王統14代目国王。
尚温(しょうおん)
 尚哲(しょうてつ)の次男。第二尚氏王統15代目国王。
尚育(しょういく)
 尚灝(しょうこう)の次男。第二尚氏王統18代目国王。
尚濬(しょうしゅん)
 尚育(しょういく)の長男。若くして亡くなったために王位に就くことはありませんでした。
尚典(しょうてん)
 尚泰(しょうたい)の長男。最後の中城王子。

中城間切番所(なかぐすくまぎりばんじょ)設置(せっち)間切行政(まぎりぎょうせい)のしくみ(1729年)

 『球陽(きゅうよう)』によると、1729年に中城グスクの一の郭内にあった建物を改築して中城間切番所(なかぐすくまぎりばんじょ)としたと記されています。この時点で中城グスクは城塞(じょうさい)としての機能を失っていました。
 中城間切番所とは、現在の役場(やくば)のようなもので、王府のある首里からの指示を受け、村人たちを管理する機関でした。番所の指示は、各村にある村屋(むらやー)にいる役人に伝えられ、その役人たちが農業(のうぎょう)林業(りんぎょう)監督(かんとく)指導(しどう)をおこなっていました。

⑦ペリー琉球奥地探検隊(りゅうきゅうおくちたんけんたい)中城(なかぐすく)グスク訪問(ほうもん)(1853年)

 アメリカのペリー提督(ていとく)がはじめて琉球を訪れたのは1853年5月でした。ペリー提督は日本との交渉の際の拠点として琉球を利用することを考え、1854年7月までのあいだに5回来琉(らいりゅう)しました。

琉球に訪れるたびペリー提督は、沖縄本島内を調査する探検隊(たんけんたい)編成(へんせい)し、島内(とうない)を調査しました。そして、琉球に関する資料や調査隊たちのメモや報告書をもとにして、アメリカ議会に報告書を提出しました。これが『ペリー艦隊日本遠征記(かんたいにほんえんせいき)』です。『日本遠征記(にほんえんせいき)』では当時の琉球社会の状況や村の様子、人々の生活を知る事ができ、中城グスクの様子についても記されています。

■『ペリー艦隊日本遠征記(かんたいにほんえんせいき)』に見る中城グスクの様子
 ・・・われわれは古代の城塞(じょうさい)を発見して驚いた。城塞は中央分水嶺(すいれい)支脈(しみゃく)頂上(ちょうじょう)に、湾(中城湾)を(のぞ)むように位置を()めていた。その輪郭(りんかく)不規則(ふきそく)だったが、ほぼ北東(ほくとう)から南西(なんせい)の方向を向いていた。ある部分は完全に保存されていたが、別の個所は(つる)や木がのびほうだいになっていて、土台(どだい)となっている自然の岩とほとんど区別がつかなかった。アーチ形の門をくぐると、道は樹木(じゅもく)(しげ)段丘(だんきゅう)へと通じており、その上に慰霊碑(いれいひ)()石造(いしづく)りの建築物(けんちくぶつ)があった。さらに石段(いしだん)を登ると、もう一つの門に達した。門を抜け、広い(にわ)を通って城塞の内部に入った。そこは木々が贅沢(ぜいたく)()(しげ)り、一隅(いちぐう)立派(りっぱ)私邸(してい)があった。わがペーチンはすでに到着(とうちゃく)しており、主人(中国人のクーリーたちは「日本領事(にほんりょうじ)」と呼んでいた)がうやうやしく(礼儀正しく)案内してくれた。
・・・(中略)・・・岩に刻まれた急な階段を下りて北側へ出ると、城塞のすぐ下に洞穴(どうけつ)があり、その底に冷たい清らかな水をたたえた池があった。その場所には群葉(ぐんよう)がびっしりと()()がり、太陽の光も届かなかった。・・・(中略)・・・材料は石灰岩(せっかいがん)で、立派(りっぱ)構造(こうぞう)石造建築(せきぞうけんちく)だった。石材の中には一辺(いっぺん)四フィート(約1.2m)の立方体の石もあり、非常に丁寧(ていねい)に削られ、()()わされているため、モルタルやセメントは使われていなくとも、耐久性(たいきゅうせい)十分(じゅうぶん)であると思われた。この建造物(けんぞうぶつ)には、注目(ちゅうもく)すべき点が二つあった。ひとつは、アーチが二重(にじゅう)になっていて、下の方は二つの石をほとんど放射線状(ほうしゃせんじょう)に削って中央で合わせたもの、その上は楔石(くさびいし)を使ったエジプト式のアーチになっているということである。

 もう一つの特徴は、稜堡(りょうほ)の代わりに石造の四角い突出部があって、前面が凹状(おうじょう)になっていることである。これは、砲弾(ほうだん)を防ぐというより、その威力(いりょく)をくぼみの中心に集めて受け止める構造(こうぞう)なのだろう。とはいえ、この城塞は鉄砲類(てっぽうるい)が琉球に伝わるよりはるか以前に建てられたものに違いなかった。

長さ→235歩
幅→70歩
基底部(きていぶ)の壁の厚さ→6~12歩
上部の壁の厚さ→12フィート(約3.6m)
斜面に沿って図った外壁の最高部→66フィート(約20m)
内壁の高さ→12フィート(約3.6m)

外壁の角度→60度

『ペリー提督日本遠征記 上』(宮崎壽子訳2014年)より

上杉県令(うえすぎけんれい)中城(なかぐすく)グスク訪問(ほうもん)(1881年 : 明治14年)

 上杉茂憲(うえすぎもちのり)は1881年から83年にかけて沖縄県令(おきなわけんれい)(つと)めた人物です。上杉は1881年、一ヶ月にわたり沖縄県内を巡回(じゅんかい)しました。中城を訪れたのは1881年11月15日から16日にかけてで、県令は中城グスク内にある番所(ばんじょ)を訪れ、グスクについて、築城された当時からのつくりを残している点や、グスクから見える絶景(ぜっけい)、石積みの技術の高さを称賛(しょうさん)しました。番所では、当時の中城間切の事について役人に質問を行いました。質問が終わると、県令たちは番所内にあった護佐丸にまつわる巻軸(まきじく)を読み、護佐丸を沖縄における古今第一(ここんだいいち)忠臣(ちゅうしん)として()(たた)えたそうです。

中城小学校(なかぐすくしょうがっこう)開校(かいこう)(1882年 : 明治15年)

 1882年、間切番所(まぎりばんじょ)の建物の一室を教室として中城小学校が開校(かいこう)しました。
 1889年には、三の(かく)手前に広場を作り、そこに新校舎を建て学校を移しました。新しくできた学校は瓦葺(かわらぶき)木造建(もくぞうだ)てで教室は4つあり、職員室(しょくいんしつ)宿直室(しゅくちょくしつ)もありました。校舎の周りはきれいな松林(まつばやし)があり、学校からの景色はとても素晴(すば)らしかったそうです。子ども達は読み書きやそろばん、体操、音楽などを勉強し、休み時間になると、男子は相撲(すもう)(せみ)取り、女子は縄跳(なわと)びやお手玉をしていました。運動場では、野球やテニスもやっていたそうです。特に野球では、ホームランボールが城壁(じょうへき)に当たる事がありました。

【中城小学校の見取図】

間切番所(まぎりばんじょ)から間切役場(まぎりやくば)(1897年 : 明治30年)

 1897年に中城間切番所は「沖縄県間切島吏員規定(おきなわけんまぎりとうりいんきてい)」により、中城間切役場(なかぐすくまぎりやくば)改称(かいしょう)されました。

間切役場(まぎりやくば)から村役場(そんやくば)(1908年 : 明治41年)

 中城間切役場は、1908年には「沖縄県及(おきなわけんおよ)島嶼町村制(とうしょちょうそんせい)」によって中城村役場となりました。建物は、グスク内にあった建物を増築して使用しました。当時の役場は、チャーギ(和名:イヌマキ)でつくられていました。役場成立時の職員は、村長(そんちょう)助役(じょやく)を含めて20名でした。 役場には、当時としてはめずらしい電話があったことから、近所の人たちがよく利用していたそうです。

忠魂碑(ちゅうこんひ)建立(こんりゅう)(1915年 : 大正 4年)

 1915年、中城村在郷軍人会(なかぐすくそんざいきょうぐんじんかい)ならびに有志(ゆうし)によってグスクの二の(かく)内に忠魂碑(ちゅうこんひ)建立(こんりゅう)されました。()には日露戦争(にちろせんそう)で戦死した中城村出身兵5名、第一次世界大戦で戦死した村出身兵士1名の名前と階級(かいきゅう)などが(きざ)まれています。
 忠魂碑の建立後は、在郷軍人会(ざいきょうぐんじんかい)などが中心となって招魂祭(しょうこんさい)や式典などがとり行われ、出兵兵士(しゅっぺいへいし)武運長久(ぶうんちょうきゅう)祈願(きがん)すると同時(どうじ)に、村民に対しては戦意高揚(せんいこうよう)忠君愛国(ちゅうくんあいこく)の精神を教える場となりました。  この忠魂碑は、県内にある忠魂碑の中でも古い方に入ります。

大正期(たいしょうき)中城(なかぐすく)グスク(1920年 : 大正 9年)

馬場(ばば)
 1920年に中城小学校が屋宜に移転すると、跡地(あとち)馬場(ばば)として利用されるようになりました。馬場では毎年、原山勝負(ハルヤマスーブ)が行われ、各集落対抗の運動会、相撲や競馬(けいば)なども行われていました。原山勝負や運動会では、各集落の旗頭(はたがしら)を持った大人たちや見物客が大勢集まり、とても(にぎ)やかなものでした。また、この日は子ども達にとっても普段食べられないお菓子などをもらうことができる貴重な日でした。 馬場から見下ろす景色はすばらしく、西海岸(にしかいがん)一望(いちぼう)することができたことから、県外へ出る船を見送るための場としても利用されていました。
■子どもたちの遊び場・中城グスク
 大正時代は、中城グスクは子ども達の遊び場でもありました。グスク付近にあるカンジャーガマでは、ままごとや学校ごっこをして半日近く遊んでいる子や、役場の職員にいたずらをする子もいました。(きた)(かく)内には五右衛門風呂(ごえもんぶろ)のような(かま)があり、職員が週に1・2回ほどお風呂を()いていたそうで、子ども達も職員が入ったあとにお風呂に入っていました。

沖縄戦(おきなわせん)中城(なかぐすく)グスク(1945年 : 昭和20年)

 1944年8月、中城グスク一の(かく)にあった役場は日本軍が駐屯(ちゅうとん)しました。そのため、グスクやその周辺の井戸に住民たちは立ち入ることができませんでした。さらに日本軍は、城壁(じょうへき)内に防空壕(ぼうくうごう)を作ろうとしましたが、城壁を破壊した際、中から岩盤(がんばん)がでてきたことから作業を中断したそうです。その跡が正門近くの城壁に今でも残されています。
 10.10空襲(くうしゅう)の後、役場にあった土地台帳(とちだいちょう)戸籍簿(こせきぼ)などの書類を()(かく)の下にあるカーブヤーガマ(洞穴)に(かく)したといわれています。
 1945年3月ごろから中城村でも空襲がはじまり、それに加えて24日には大規模(だいきぼ)艦砲射撃(かんぽうしゃげき)を受けました。グスク周辺の住民は、馬場周辺の墓や個人で掘ったガマなどに避難していました。4月1日、米軍は北谷の海岸から上陸し、2日にはグスク周辺まで攻め込んできました。米軍の攻撃によって役場は破壊されましたが、城壁への被害(ひがい)は少なくほぼ原形(げんけい)をとどめることができました。

中城公園(なかぐすくこうえん)(1950年 : 昭和25年)

 戦後、奥間に役場が設置されたことから、城跡内は無人となりました。しかし、1947年、民政府(みんせいふ)から村長に対し中城城跡を公園として整備(せいび)するよう内示(ないじ)(くだ)され、1948年から50年にかけて工事がおこなわれ、売店(ばいてん)遊技場(ゆうぎじょう)闘牛場(とうぎゅうじょう)などがつくられました。
 1950年3月5日中城公園(なかぐすくこうえん)開園(かいえん)し、多くの家族連れや遠足の子ども達で城跡内はあふれかえりました。動物園では、ライオンやキリン、ペンギンなどの普段見ることのない動物たちがおり、遊園地では遊具(ゆうぐ)に長い列ができました。1960年代には、来場者が1日で3万人を超えた日もあり、復帰以前最大のテーマパークとして発展していきました。
写真提供:ドットソリューションズ(株)

文化財指定(ぶんかざいしてい)(1955年 : 昭和30年)

 1955年、中城城跡は琉球政府(りゅうきゅうせいふ)により重要文化財(じゅうようぶんかざい)建造物(けんぞうぶつ))、史跡(しせき)名勝(めいしょう)にはじめて指定をうけました。1958年に特別史跡(とくべつしせき)、1962年には特別重要文化財(とくべつじゅうようぶんかざい)に指定されました。1972年、沖縄の日本復帰(にほんふっき)とともに国の史跡に指定されました。指定の理由として①保存状態(ほぞんじょうたい)の良さ②完成度(かんせいど)の高い築城技術(ちくじょうぎじゅつ)③琉球王国の中央集権化(ちゅうおうしゅうけんか)に重要な役割を果たしたこと が()げられます。

復帰以前(ふっきいぜん)修復(しゅうふく)(1961年 : 昭和36年)

 中城城跡の修復(しゅうふく)は復帰前から行われ、大きく2つの時期に分かれます。

公園整備(こうえんせいび)に伴う修復(しゅうふく)
 公園施設(こうえんしせつ)整備(せいび)による工事は1948年9月~1950年2月の間に行われました。工事箇所(こうじかしょ)西(にし)(かく)(みなみ)(かく)の階段、(いち)(かく)の東側アーチ門階段と西側のアーチ門階段となっており、階段のみの工事でした。修理の箇所は現地でも見ることができます。


文化財指定後(ぶんかざいしていご)の修復
 戦後の中城城跡は、沖縄戦の影響が少なかったとはいえ、沖縄戦時の砲撃(ほうげき)やガジュマルなど樹木(じゅもく)の影響により、石積みの破損箇所(はそんかしょ)が多く、いつ(くず)れてもおかしくない状態(じょうたい)でした。そのため、観覧者(かんらんしゃ)安全確保(あんぜんかくほ)史跡保存(しせきほぞん)を目的として、1961年~1968年に城壁の修復工事(しゅうふくこうじ)を行いました。
 修復範囲(しゅうふくはんい)は、二の(かく)の北側・東側・南側の各城壁、一の(かく)の東側・南側城壁と大規模(だいきぼ)なものでした。この時に、新しく積んでいる箇所は乱積(らんづ)み風に積まれ、石材も既存(きぞん)のものと比べると小さいものが使われました。また、当時の工事では石材同士を接着(せっちゃく)するためにモルタルを使用したり、石材の表面に機械の加工の(あと)が残っています。

修復(しゅうふく)保存(ほぞん)(1995年 : 平成 7年)

 1995年から中城村による本格的(ほんかくてき)整備(せいび)事業(じぎょう)がスタートし、発掘調査(はっくつちょうさ)修復工事(しゅうふくこうじ)など保存・活用へ向けて整備を実施(じっし)しています。
 城壁の修復では、まず現状(げんじょう)を確認するために発掘調査が行われます。発掘調査では、壊れた原因だけではなく、石積み技術や、グスクの構造(こうぞう)、グスク時代の人々の生活など様々なことが分かります。また、発掘だけではなく、文書(ぶんしょ)や古い写真資料なども、城跡の修復には大切な資料となります。そして、発掘調査とは別に最新の技術を使った3D測量(そくりょう)を行います。
 発掘や測量調査によってわかった情報をもとに、今度は修復工事(しゅうふくこうじ)が行われます。修復工事では考古学(こうこがく)だけではなく、造園学(ぞうえんがく)建築工学(けんちくこうがく)といった様々な視点から修復の方針(ほうしん)を決め、熟練(じゅくれん)の技術を持った石工(いしく)によって修復作業が行われます。グスクの石積みを修復するためには、最新の技術やさまざまな学問の知識、熟練した技術など多くの人が関わっています。しかし、昔ながらの技術を持った石工の高齢化(こうれいか)やそれに伴う石工の減少があり、石工の人材育成は今後、城跡の修復では重要(じゅうよう)な課題です。
 また、城跡内に植生(しょくせい)している樹木の伐採(ばっさい)も大切な修復・保存の仕事の一つです。樹木の根は、石積みを壊してしまう大きな要因の一つで、定期的に木を伐採することはグスクの崩壊を防ぐための大事な作業といえます。
発掘のようす
修復工事のようす

世界文化遺産登録(せかいぶんかいさんとうろく)(2000年 : 平成12年)

 2000年12月、中城城跡は「琉球王国(りゅうきゅうおうこく)のグスク(およ)関連遺産群(かんれんいさんぐん)」の9つの遺産のひとつとして世界文化遺産(せかいぶんかいさん)登録(とうろく)されました。
 世界遺産(せかいいさん)は、今を生きる私たち一人一人が過去から未来へと伝えていかなければならない大切な遺産です。沖縄の歴史を語る遺跡として、未来へ残していくことが私たちの務めです。